昌平坂学問所が日本の学歴社会の出発点

昌平坂学問所と言えば、学校でも習いますので多くの方がご存知でしょう。今の御茶ノ水駅の近く、湯島聖堂の中にあった江戸時代の学校です。7才くらいから20才前後までの生徒がいたようですので小中高大学の一貫校のようなものです。もともとは林羅山の私塾でしたが、1790年に幕府直轄の学問所とされました。幕府が私塾を取り上げたわけではなく、もともと江戸幕府が多大な支援をしてきた学校です。

明治維新後に廃校となりましたが、東京大学、お茶の水女子大学、筑波大学の源流となりました。日本の教育や学歴制度の元となった教育機関とも言えるでしょう。



江戸幕府の作った国立の学校

関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、国づくりを急ピッチで進めました。江戸の街の土木工事や、政治制度の構築などさまざまなことを実行していったわけですが、その一つとして、教育制度の確立ももくろんだのです。戦国時代には男子にとって必要なのは、戦う力でした。しかし、徳川が国内を統一し安定した社会を築いていくうえで必要になるのは、もはや「武力」ではなく、「知力」だと考えたのです。

「文武両道」という考え方は、江戸時代にはじめてできたものです。それまでは、戦う人と物を考える人とは別物だったのです。家康は、儒学者(朱子学者)である林羅山(はやしらざん)を取り立てて、1605年に今の上野公園の付近に私塾を開かせました。幕府ができたのが1603年ですので、すぐに学問に目を向けたということになります。土地を与えいくらかの資金を援助してつくらせたので、半官半民のようなものです。

その後、学問好きの5代将軍綱吉が1690年に湯島に聖堂を建てて「湯島聖堂」と名づけ、ここに、林羅山の私塾を移転させました。広大な土地や建物ができたおかげで、ますます塾は栄えました。そして、18世紀の終わりに「寛政の改革」を進めた松平定信の方針で、1790年に「私塾」を幕府直轄の「学問所」に昇格させ、国立の学校としたのです。



日本の学問の中心的存在に!

幕府の直轄となったのを機に、湯島の地の坂は「昌平坂」と名づけられました。儒教(朱子学)の祖である孔子の生まれたのが「昌平」という土地であったため、それにちなんでつけられたものです。正式には「学問所」という名称でしたが、昌平坂にあることから「昌平坂学問所」と呼ばれるようになり、「昌平黌」(しょうへいこう)と呼ばれることもありました。

ここでは、3年に1回学力試験を行い、成績でランキングがつけられたそうです。封建的な江戸時代のことですので、身分は世襲で決まっていましたが、それでも、学問所での成績優秀者は特に取り立てられ、出世が速かったと言われています。また、幕臣だけでなく、地方の藩士や庶民の子も受け入れたため、日本中から優秀な子どもが集まり、ここで身につけた知識を地方に持ち帰り伝えたため、すそ野の広い教育組織となりました。

徳川家康が江戸時代に始めた学校の仕組みが、現代につながっていると言えるでしょう。


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